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過日、奈良に住む知人を訪ねた。目の前にイチジクを出された。大粒でライラック色が鮮やかである。いま、庭からとってきたという。そういえば鼻の端にイチジクの木が見える。食べてみる。うまい。やはり旬のものに限る。
イチジクは「無花果」と書くので「やっぱり花は咲かないですか」と、ヤボなことをたずねたら、その知人、「花は咲きます。ちゃんとオシベもメシベもある。ただ、実の内壁に咲くので、表から見えないです。」という。傍らに、85歳という知人の母が、私の食べているイチジクを見ながら、こう言うのである。「秋になって、おいしい実のなる果物は、春には派手な美しい花なんか咲かないものですよ。」なるほど、ブドウや柿や梨の花は、たいてい地味である。牡丹や芍薬のような鮮やかな花は秋には実が小さい。牡丹などは派手な花を咲かせるために、むしろ結実しないよう花柄を切り取ってしまう。
牡丹ならそれでいい。でも人間は青年だけで終わるのではない。やがて牡丹となり、老年と長い人生を通らねばならない。
青年期は開花の季節だから大いに花も咲かせたいだろうが、秋の実りある成果を望むとすれば、来るべき結実のために、派手な花より、イチジクのような地味でつつましい花の咲き方をすべきであるということになる。
老婆の話に、そんな風な話をつけて言ったら「そういうことになりますかねぇ」とあいづちをうってくれた。
その話に知人も気をよくしてくれて、「うちの会社では、新人社員は独身貴族。若い奴がビフテキを食べ、課長がざるそば、部長がノリのなくなったもりそばだよ。いまの若者は、まるで牡丹や芍薬だ」と万年課長、少しヤケクソ気味に言うのである。
1つ食べ終えて、「なぜ、イチジクというのですかねぇ」と言ったら、日に1つづつ熟するから「一熟」というのだと、知人、なかなか物知りである。「一熟」と書けば、一事に徹するとも読める。
「さぁ、もうひとついかがですか」と老母が差し出す。その笑みをたたえた顔は、長い人生を一事に生き抜いてきたのだろう。熟したイチジクに似て、美しい顔であった。
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