知恵倶楽部 http://www.chie-club.com
読んで下さい

【 イチジクの花 】

 過日、奈良に住む知人を訪ねた。目の前にイチジクを出された。大粒でライラック色が鮮やかである。いま、庭からとってきたという。そういえば鼻の端にイチジクの木が見える。食べてみる。うまい。やはり旬のものに限る。

 イチジクは「無花果」と書くので「やっぱり花は咲かないですか」と、ヤボなことをたずねたら、その知人、「花は咲きます。ちゃんとオシベもメシベもある。ただ、実の内壁に咲くので、表から見えないです。」という。傍らに、85歳という知人の母が、私の食べているイチジクを見ながら、こう言うのである。「秋になって、おいしい実のなる果物は、春には派手な美しい花なんか咲かないものですよ。」なるほど、ブドウや柿や梨の花は、たいてい地味である。牡丹や芍薬のような鮮やかな花は秋には実が小さい。牡丹などは派手な花を咲かせるために、むしろ結実しないよう花柄を切り取ってしまう。
 牡丹ならそれでいい。でも人間は青年だけで終わるのではない。やがて牡丹となり、老年と長い人生を通らねばならない。

青年期は開花の季節だから大いに花も咲かせたいだろうが、秋の実りある成果を望むとすれば、来るべき結実のために、派手な花より、イチジクのような地味でつつましい花の咲き方をすべきであるということになる。
 老婆の話に、そんな風な話をつけて言ったら「そういうことになりますかねぇ」とあいづちをうってくれた。

その話に知人も気をよくしてくれて、「うちの会社では、新人社員は独身貴族。若い奴がビフテキを食べ、課長がざるそば、部長がノリのなくなったもりそばだよ。いまの若者は、まるで牡丹や芍薬だ」と万年課長、少しヤケクソ気味に言うのである。

 1つ食べ終えて、「なぜ、イチジクというのですかねぇ」と言ったら、日に1つづつ熟するから「一熟」というのだと、知人、なかなか物知りである。「一熟」と書けば、一事に徹するとも読める。

「さぁ、もうひとついかがですか」と老母が差し出す。その笑みをたたえた顔は、長い人生を一事に生き抜いてきたのだろう。熟したイチジクに似て、美しい顔であった。


鏡と鑑
 日本の言葉に漢字が当てられると、もともと語源を同じくしていた言葉も、全く別の言葉のように思われることがある「掻く」「書く」「描く」などは、いずれも物の表面を傷つける行為がもとになっているらしいをわかっても、「物」と「者」になると、その語源は簡単に説明することはむつかしくなる。「食べる物」「食べる者」と並べれば、むしろ対立する言葉のようにさえ感じられる。鏡に当てられる「鏡」と「鑑」にしても、一方が物を映す道具であり、もう一方が手本を意味する言葉だから、字面だけ見ていれば、同源の言葉とはちょっと思われない。


 鏡が三種の神器の一つに加えられた時代、それは物の姿を性格に映す驚くべき、ハイテク製品であった。自分自身を見ることのできない人間は鏡を前にして、初めて自分の姿をはっきり見ることができた。鏡は普段は見えない本当の姿を映してくれるのだから、そこに映ったものは私たちの手本となるべきものと考えられたのである。


「子は親の鏡」ということわざにもそれはうかがえる。


 先日のことである。小学六年生の長女が二つ下の次女を叱っていた。きつい叱りかたをしているなと思って聞いていたが、ふと、それが私が子供を叱る口調にそっくりなことに気づいて、ぎくりとした。自分はあんな思いやりのない叱り方をしていたのかと、冷や汗のある思いだった。

 子供は、親の考え方やしゃべりかただけでなく、その仕草や感情までも身近な親を最も信頼できる手本=鑑として育っていく。子供の柔軟な感受性は、何もない鏡の表面が物の姿をくっきり映すように、親の姿、生きざまを映すのである。美しいもの、醜いもの、ありのままに写しだす。子は、確かに親の鏡でもあるが、そこに映し出されたものは、親が自らを反省すべき鑑でもある。 (ある新聞から)
プライバシーポリシー | お問合せ | セキュリティポリシー | リンクについて
Copyright 2005. CHIE-CLUB. All Rights Reserved.