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友人の工場で職工の一人が自殺した。その遺書に、この世はつまらない、おもしろくないから死ぬ、と書いてあった。淋しい一生であった。二十八年の生涯をあっけなく終わった。
この世はそんなにつまらない世であろうか、生きるに耐えられない世であろうか。その人は死んだ。しかし世の中はそのまま残っている。世の中が悪かったのではあるまい。その人の見方、考え方が悪かったのではあるまいか。
「手を打てば下女は茶をくむ 鳥は立つ、 魚はより来る、猿沢の池 」
という歌を思い出す。奈良の猿沢の池のほとりに立つ。手を打つ。その音に三つの姿があらわれた。その一つは女中さんである。お茶をもって来た。第二は、鳥である。あわてて逃げ去った。第三は、魚である。餌を求めて鯉が集まってきた。
一つの音、手の音、そこによろこび集まる魚もある。恐れて逃げる鳥もある。同じ音をきいてよろこびと恐れ、反対の二つがあられる。これは音の責任ではない。受けとり方、聞き方の差である。
この世は同じ一つの世の中である。それをありがたいとよろこぶ見方もある。味気ないと悲しむ考え方もある。結局、自分の受け方、聞き方、見方、考え方が基本となっている。
天下の横綱でも一週間はなにも食べない。体力が弱る。その場合は足もよろめく、相撲はとれない。軽いものまで重く感じる。人間も心に滋養をやらないで心がやつれたら、なんでもつらく感じる。ちょっとしたことに耐えられぬ悲しさも感じる。人間の日々のくせ、生き方、通り方、これがつみ重なる。そうしてその人の習慣や心の中の本体となる。
自殺した職工をしらべてみた。だれからも惜しまれていなかった。ひじょうに利己的なわがままがあった。酒をのんでも給仕する人のいやがることをいう。えらそうな口をきく。小理屈をいう。ひとり去りふたり去る。近よらぬ。だから本人もおもしろくない。二十八才になって恋人も出来ない、だからだれからも好かれない男であった。
空腹になっているときはなんでもおいしそうに見える。自分を空にして働く。汗をしぼった人は心が晴れる。だれにでもなつかしく見える。親しめる。自分をカラにする習慣、ひとをよろこばせる行為、これをつみ重ねて明るい心、よい習慣をつくる。これがこの世をありがたく思う生き方であろう。
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