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【 目が見えると言うご恩 】

「一円の貯金もできないからつまらない」とため息ばかりついた洋服やの藤村さんだったが、よく考えてみれば、金や地位よりすばらしいものをチャンと持っていた。それを発見したらこの世は楽しい。


誰の身近にも幸福がある

人間の不平不満やグチ、小言ほどうっとうしいものはない。

その反対に、日常生活そのままの中に神の理を受けた感激ほど輝かしいものはない。
 生き甲斐ない、つまらない人生とは感激のない人生の謂である。その感激はどこから生まれてくるかといえば、神の恩を克明に知ったときである。
あるとき藤村という洋服屋さんが訪ねてきて、「アアつまらない」と、しきりにため息をつくのである。あまり聞き苦しかったので、「何がそんなにつまらないのですか」と尋ねた。

「なんぼ働いても、ようやく食ってゆくだけで、一円の貯金もできません、これからさきもできる見込みがないと思えば、働く気にもなれません、私のようなつまらない者はありません」と、なおもため息を続ける。

「金がなければ首のないようなものです。金さえあれば何でもできます。金が人間に一番幸福を与えます。その点、私は全くつまらない運命だと思うて、ため息をつくのです。」との話である。

無理もないことと思った。しかしこれではあまりにも気の毒に思った。そこで「藤村さん、金を生命としておるあなたが、貯金できぬのを悲観するのはご無理ではありません。それを悲観なさるのはよいとして自分の境遇を公平にお眺めになって、悲観するところは悲観し、喜ぶところは喜ぶようになさいませ。ため息ばかりついて、喜ぶところを喜ばずにいては、チト不公平ですからなあ」
「その喜ぶところがないから喜べずに、私はため息をついておるのです」
「そうですか。私は喜べるところがタンとあると思うのですがね・・・では、どうでしょう。ここに、ある物好きな人があって、あなたを5千万円の会社の社長とし、別に百万円の現金を渡し、その上、大臣にしてあげるから、あなたの両眼の水晶体を二つともくれよと言うたら、差し上げますか」

「うーむ、これをあげたら、私は三十三の若さで、妻子を抱えて、これからの生涯を盲目で暮らさねばなりませんね」といいつつ、藤村さんはしばらく目を閉じていたが、「いやぁ、盲目になっては、何ほど金があり、たとえ大臣になりましても、私には幸福と思えませんので、目だけはあげられません」
「そうなれば、社長、金、大臣というような万人の普通に求めてやまないものよりも、見えるという幸福の方がまさっていることと、あなたは証明しておるのです。見る目を持っていることの幸福、貯金の少々できた幸福とは比較にならぬのではありませんか」
「貯金ができぬ、つまらない」と言うより、「社長になるより見る目があるのがうれしい、百万円に替えられぬ目が有難い、大臣になるより見える目が結構」と有難い、うれしい、結構と、この方をチト連発してもいいですね。

あなたの身体の中の目ひとつでさえ、金にも地位にも替えられないほど大事なのでありますから、身体全体の大切さは、金などでは決して見積もられないほど限りなく尊いものです。
 貯金がないと、ないことに目をつけて、つまらないと悲観するより、見える目があると、ある方に気が付いたら、喜べるのではありませんか。 その何にも替えられない、見える目は、あなたが考え、あなたが作ったのですか。あなたがお金を出して買うたのですか。と、話したら、一つ一つうなづいていた藤村さんは、顔に希望の色をみせて帰られた。(柏木庫治集より)

先生という呼び名

どこかで読んだ記事だが、ある大学教授の子供が、自分の小学校の校長さんを呼ぶのに「校長、校長」と呼び捨てにする。
 そこでお父さんが「校長先生と呼びなさい校長などと子供が呼び捨てるものではない」と教えたが、どうしても先生とは言わない。「なぜ先生と言わないのか」と決めつけたら、子供曰く、「校長からは何も教わっていない。それなのに、なぜ先生といわねばならないのか」と言ったそうです。
 この子供の考え方には、軽々には見逃せぬものがあるとおもう。

 子供にとって直接何ら学び取ることのない人に、なぜ先生と言うのか疑問であったのであろう。この子供の言葉の先の先生族は、反省する必要がありはしないだろうか。

 教育家、宗教家、医師、政治家と言われる部類の人たちは「先生」と呼ばれ尊敬されているのである。「先生と言われる程の馬鹿でなし」という川柳もないではないが、やはり一般的には、かかる部類の人たちには先生という敬称を捧げている。

 子供のいうように、何も教えてくれず指導してくれない人に、なぜ先生と呼ばねばならないのか、この疑問に対する正解はどこにあるのか。

 その後幾日かを経て、子供がいつか校長先生と呼ぶようになった。不思議に思った大学教授がそのわけをたずねたら、「校長が僕らの遊ぶ庭の石を片付けたり、お掃除をしてくれているのを見て、やはり先生だなあと思ったからだ」と答えた。
 ますますもって教えられるのではないか。
 何も白知らぬと思っている子供の観察は実にするどい。子供だからと思うて親がうっかりしていると、今に子供から信用を失うであろう。(ある新聞から)

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