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車を盗み、無免許で、タバコを吸って、酒を飲み、女を連れてドライブ。あげくの果てにトラックに激突、3人死んで、2人が重傷。これが全部中学生であったという。 過日、千葉県で起きたニュースである。 中学生といえば、まだ尻が青くて、幼虫みたいな物だと思っていたが、なかなかどうして、大人かおまけの仕業である。 ただちょっと気になることは、この事件で早速、学校側の責任が追及されていることである。その学校の校長の名が新聞に出て、事件後どんな処置をとったか、 区の教育委員会が早速、その学校の校外指導の調査に乗り出したということである。校長も先生も大変なことだと同情したくなってきた。 その事件は午前4時の出来事で、学校にも何らかの責任があっても、いったいその子らの親の責任は、どうなっているのかと思いたくなるのである。。 急に子を失った親にとって、その心情は理解できないこともないが、そんな悲惨な目に遭わなければならない運命を、私も4人のこの親として、 ここであらためて思案してみることにしたのである。 過日、息子たちがお世話になった幼稚園の先生たちが訪ねてきた。その先生は20年のベテランで、40を過ぎているが、まだ独身である。 園児の親たちにこんなことを言われるのが、いちばん口惜しいというのである。「あなたは、子供を生んだことないから、子供の心がわからないのよ」 生んだ経験がないからとて、20年も子供に接していれば、子供の心がわからないわけはない。親は欲目で、子供に盲目になっている。だから見えないところが出てくる。 そこを、ベテランの先生は、鋭く見抜いて注意すると、親は親馬鹿で我子をかばい、、そして先生を責める、それが悲しくも、口惜しいというのである。 子供を産みさえすれば、全てのこの心がわかるという自惚れも鼻持ならないが、産みっぱなして、姑に預け、学校に預け、時々顔を出して、親ヅラして学校を責める風潮も、 この幼稚園の先生ならずとも私もいささか口惜しく思うところである。 世の中とは、まったく思い通りにいかないものである。願っても願いどおりにならない。我子に限って、そんなはずはないに、願わぬ病で苦しみ、思わぬ事情まで、 悩まされる。どうも自分の子でありながら、自分の子でないような気がする。誰かに支配され、誰かに動かされてるような気もするのである。 私は保護司を務めて、もう18年になる。初めのころは機構の原因は主に経済上の理由が定説であった。いまでは、富裕の家か教育家の家でも非行はでる。 だからもう、そんな貧富の条件など主な原因ではない。というのが常識になっている。 青年が暴力をふるう。少年が事故を起こす。それは政治が悪い、社会が悪い、教育がゆがんでいる。果ては本人の性格だという現界視覚や認識だけでとらえても、 それが誘因にはなるが、根本の素因ではないような気がする。 「蒔けば生え、蒔かねば生えぬ善悪の、人は知らねど種は正直」と、誰がいったか知らないが、因縁の理を見事に示した歌がある。 過去が現在を作り、現在が未来を支配する因縁の理は、針の先ほどの狂いもごまかしもない、厳しい理づめの世界である。 籾から苗になり、苗から稲になる。これを人間に当てはめれば、曽祖父母ー祖父母ー父母ー自分ということになる。曽祖父母が籾とすれば、現在の自分も籾である。 そうすれば、種どおりである。子供は親の躾どおりでなく、親の心どおりである。トビがタカの子を産めないのである。カボチャからメロンは出来ないのである。 良質のカボチャかの違いだけである。 暴走した中学生の運命の中に狂わせた胚種が、見えない地下の根に潜んでいたとすれば、その根本の因縁こそ責められるべきであり、納消されるべき相手ではないかと思うのである。 「善因善果」なら当たり前、「悪因悪果」なら、もうあきらめの運命しかない。しかし、たとえ「悪因」でも「善果」となり得る可能性がなければ、英知ある人間の運命とはいえないのではないか。 私もやはり、ただの人の子の親。明日も見えぬ無明の徒である。なればこそ私の信心も、この一点から始まったような気がするのである。 カボチャの私は、メロンは作れないが、せめて子供たちだけは、私より質の良いカボチャになってもらいたいものだと、朝夕、神様や先祖様に手を合わせているのである。
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