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新聞によると、銀行強盗を防犯カメラがとらえ、たまたま見ていた犯人の長男が、「あれ、お父ちゃんや」と直感。なに食わぬ顔で帰宅した父に、「何で強盗なんかやったんや」と、蓄い、父親を諭して、自首させたという。 それは五年程前、大阪府の池田市で起きた箏件である。二十一歳の長男は、「僕と警察に行こう」と、犯人である父に一言うと、犯人は「えらいことをしてしもうたんや」と息子に頭をたれた。長男は自首を促す。父は「そうやな」と素直に応じ、警察に削頭した。長男は警察に、涙ながらに「父を罰して」と言ったというのである。 犯罪をおかした子供を、親が説諭して自首させることはよくあることで、凶悪犯が、最後に実家に立ち寄り、そこで逮捕されるケースなどは、その例であろう。 いかに親とはいえ、罰は罰と、言えばそれまでだが、それも子が親を臼州に引き出すことは、まさに悲しき美談と言うべきなのか、「宇寸をもって泣かぬ親はない」というコトバがあるが、これはまさしく逆噸の世界である。諺に、血は水よりも濃しと言う。もちろん、水とは血縁のない他人のことを言うのだろうが、ふだん疎遠な親戚でも、他人との争いじとがあれば、事の理非はともかくわが親戚に味方するのが人情であろう。いわゆる血族意識。ことに母親支配型の強くなった今日のご時世では、ますます、この人情がハバをきかしてきたようである。 親は子が悪事をはたらいても、「わが子に限って」とか「友達が悪いから」と」菖い、嫁は、姑の悪口は平気で飯のオカズにするが、そのくせ実家の母の欠点はオクビにも出さない。姑は姑で、嫁のしぐさに、文句たらたら、そのくせ、娘のわがままは知らん顔。すべて血のなせる業と言うべきなのであろう。
よく、宗教でいう慈悲の「慈」は楽を与える心で、「悲」は他人の苫を憐れみ、救済しようとする心であると言われている。仏教では、いったん、出家すれば、肉親や家庭のことは一切、語らぬものとされていた。そう言えば法然や道元は両親について全くふれていない。在家に近い親驚でさえも、父母のために一度も念仏を喝えたことはないと歎異抄に書いてある。日蓮は少々違い、恩愛をほぽ、肯定し、切々と、父への孝養を説いたが、これも、儒教の現世にだけ限る親孝行の非宗教的道徳を批判し、親がなくなったあとの霊魂の救済こそ、真実の親孝行であると説いている。 (開目抄) 宗教の世界では、理非をわきまえぬ骨肉の惰は許されないということになる。とはいえ、人間の恩愛の情は容易に断ちがたい。人情に背き、世情に反し、ひたすら信心の道を修めることは、きわめて難行と言える。特に、人惰の申で、親子の恩愛ほど、断ち難い人情はないだろう。それなのに道元は、「正法眼蔵」でこんな風に説いてある。 「父母はしばらく生苑のなかの親なり」親子といえど、しょせんは束の問の人生、いくら親孝行しても親の無惰や不安は取り除けない。親が子を愛したとて、不安は去らず今生暫時の妄愛迷情の悦びに過ぎないと冷たく、大胆に言い切っている。 人情に誘惑され、道理をまげ、肉親愛に溺れることになれば、親とて、その心は、ますます救い難きものになるだろうと、安易な親孝行と慈悲をはっきり区別しているのである。
さて、子供が、強盗をした父をかくまう私惰を捨て、罪を公の前に告発したこの事件は、肉親愛を超えた、宗教で、、亭つ、いわゆる無慈悲を、きわめて明確に一不したものと、私は強い感動をもって新聞を読んだのである。なお新聞には、手錠をはめられ警察に護送されていく強盗犯人の写真がのっていた。うなだれた犯人の顔を見て、私はむしろ、素晴しい親孝行の子をもった果報物に見えて、少」しも憎めないのである。 新聞を読み終わり、窓の外を見ると、珍しく空が明るい。秋の月が出ているのだろう。 フト、こんな話を思い出した。ある男が、月夜の晩に、子を背負って外に出た。すると、隣家の塀から食べころの柿がいっぱいこぽれていた。ひとつ、もぎとろうと思い、手をだしたら、背中から子供の声がした。「お父ちゃん、お月さまが見ているよ」
隣家の柿ひとつ盗むことも、銀行の金を盗むことも、道理の外れたことに変わりはない。骨肉の惰から忍びがたいが、それを断って親の心を救けんとする子供の言葉は、神の声そのものと言える。涙ながらに「父を罰して」と、言ったその息子さんの心は、秋の月にも似て、澄んで光っていたと言えるだろう。
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