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この話しは、明治大学付属高等学校長、片桐誠さんのお話しです。非常に感銘を受けましたので載せました。
「私が悪かったのです。いたらなかったのです。どうか!どうかお許しドさい」私は涙を流し、痛みをこらえながら、精一杯のお詑びをしました。その時、母も共に並んでお詑びをしてくれたのです。中学二年の夏休みの或る一日の昼下りでした。 幼児の時から父のしつけは、何から何まで厳格で履物を脱ぐのもきちんと揃えて、次にはく時、すっとはけるよう、人様の履物もその通り揃えるようにしっけられていました。中学に入学して町の寮生活一年五カ月、いっか身にっいた筈のしっけが忘れられていました。 夏休み、家に帰って、悪い方の習憤、楽な方の習慣があらわれてしまったのです。父は私を居間に端座させると、田舎で大正時代まで居間につきもののいろりに積んであった薪を取ると、正座した私の外ももを自分も正座して打ち続けます。居合せた母が母としての精一杯のお詑びをして呉れているのです。痛みに堪えられぬ涙ではありません。お詑びして呉れる母への有難さあまっての涙です。泣きじゃくりました。父はやっとそれで「これから気をっけなさい」と許してくれました。こわい父の言葉は「気をっけなさい」というだけを記憶していますが、母の姿母の言葉は今でも目に浮かび耳に響いています。「ごめんね」母に詑びるとワーツと大声で泣きました。父の居る間は言えなかった詑びを母には、胸一杯の有難さがせきを切って流れ出てしまったのです。それから今日迄、父のしっけを実行できているのは父の有難いしつけにょる点もありますが、母の精一杯の詑びのことぱによる外ないと思います。大正の十年リ前女学校も山の中で卒業していない母、尋常小学校を出ただけの母、どうして教養人のような立派な一言が口をっいて出るはずがありましよう。 新聞の報じるところによると、中学三年の男の子が自殺したことが載っています。中学三年は高校進学の大切な時、親がまるで自分が受験する以上頭にきています。お正月です。子供ですから受験ばかり考えていないで遊びたいのはあたりまえです。それに頭にきた父親が、それをひどく叱りつけました。悪いことには教育ママさんは、その横から口を出して、父と共に叱りました。子供にとっては致命的です。救わる処はありません。「お前のような親の心の解らぬ馬鹿は死んでしまえL「ほんとにそうですよ」。子供はもう逃れる道はありません、「そうだ、死ぬより外に道はない」逃れる道は死よりなかった、もちろん父も子供を思うが故のことばだったのです.唯わが子なるが故にわが思い通りにならぬ時、あくまで子供を親の従属物として、わが思いのままにしようとする一言葉だったのです。 子供が遠い処に逝ってからどんなに悲しんでも詑びても後のまつりです。そういう間違いは昨秋も新聞に報道されました。小学校四年の女の子が、学校で友だちと面白い遊びに夢中になって、帰宅して塾に行く事を忘れました。帰るなり母から叱られました。「塾に行く事を忘れるよう子は学校を止めてしまいなさい」子供にとっては、正に逃げる道のない事です。「人形と一緒に焼いて下さい」と人形の前に書き残して冷たくなっていました。人形を可愛がるようなやさしい子です。今の子供はほんとうに可哀相だと思います。ですから大学に入ったらうんと遊んでやろうということになります。立派なことぱでなくていいのです。 名言を吐がなくていいのです。子供の為に詑びることが出来れぱいいのです。わが身を省りみて、お母様方よ、お詑びを準備していましよう。「私が悪かったのです。いたらなかったのです、どうかどうぞお許し下さい」私の一生をつら抜いて、私の心をこれほど強く貫き通したことばはありません。ことばではありません。心の真底からほとぱしり出る澄み切った愛の響きです。 わが母は不幸にして、八人の子供のうち私一人を母乳で育てられなかったのです。経済的倒産の折私が産まれたからです.精神的打撃が母乳を止めてしまったのです。ですから自分の乳で育てられない子、どんな苦労をしてもこの子を無事に育てあげなけれぱと苦しまれたのです。山深い里、明治時代苦労されたと思います.親のもとにいた幼児から学童時代まで、そして大学を出ても「私のお乳で育てられなくって、ほんとにお前には申しわけなかった。よく立派に今日まで成長してくれました。有難いことです」口ぐせの言葉ですこの子供に詑びる母心、この心であれば、何時でも子供の為に詑びられるのです。 私を育てるのに他の兄弟と違ってわがお乳で育てられなかったという環境故に悟りの心に入っていたのでしょう。子供ふびんと一生を思って通られたと思います。その心に感激しない子供は今でもいない筈です。わが子の成人を願うなら「この子ふびん」と一生思い続けた母と同様に「わが子のためにお詑びする」ぐらいのことは、いわぱ下手でもできるに相違ないと思いつづけています。
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