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【 どうしたらよいでしょう 】
横田 肇
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八月二十二日、愛知県新城市で開催された第十一回「少年の主張愛知大会」で、岡崎市の中学三年、野村優子さんが、「海外少年少女使節団」に参加した時の経験を述べた記事が新聞に載っていました。「食べ物を下さい、食べ物を下さい」、と言うかのように手を差し出すインドの子供たち。その姿がいまでも私の目に浮かんできます。私は去年の夏、ボランティァ活動で約二週間、インドヘ行ってきました。ニュースや新聞などで、その様子は前から聞いてはいましたが、実際の厳しさや人々の貧しさは予想以上のものでした。インドでは、大部分の人々が家もなく仕事もなく、道端で大変貧しい生活をしていると思えば、一方では立派なプールや庭を持ち、大変ぜいたくな生活をしている人もいます。これはカースト制度という厳しい身分制度のためなのです。インドのカルカッタとボンベィに行ったのですが、行く先々で、私の周りには飢えたたくさんの子供たちが集まってきました。その子供たちは、やせ細った手を差し出して、食べ物をねだってくるのです。言葉こそ通じませんが、おなかや口に手を当てて、ひもじそうに手を差し出してきます。まだ、四、五才にしかならない子が、赤ちゃんを抱抱いていたりします。その中には、手首のない子供が五人に一人ぐらいの割合でいるのです。それは事故などで失ったものではありません。生れた時、親がわざと切り落としてしまったものです。貧しい身分に生れた以上、一生貧しい暮らしをしていかねぱなりません。これは変えることのできない事実です。ですから、少しでも哀れそうに見えたほうが物乞いをしやすくなると考えて親が手首を切り落としてしまったのです。
生きていくためには、人の哀れみを請うということを考えねばならない親は、どんなみじめな気持でしょうか。どんな哀しい思いでわが子の手を切り藩とすのでしょうか。
これを読んで私も先日インドに行った時のことがきのうのように、新しく思い出した。空港に降り立ったとたんに、口に手をやり食べ物を乞う物乞いの多いこと、髪をふりみだして、眠っているのか死んでいるのか生気のない赤ん坊を抱いて食べ物を乞う母親。
水浴で有名なガンジス川の街、ベナレスで、物乞いが寄ってきて出す手をみれば、指が無い者、抱帯をしている者、皆んな手を怪我している。どうして手ばかり怪我しているのだろうときいたら、これこそ、指を親が切り落とし、一本より二本、二本より三本と手のない方が哀れみをみせるのに都合のよいからとのこと。まさにショックでした。小銭でもあげようと思ったが、余りにも物乞いが多いのに方法もありません。どうしたらよいでしょう。玄関(人口)には汚れた破れた毛布をブラ下げてあり、中に入ると、暗い土間にゴザをしいて寝ている。異様な臭いが鼻をつく。私達日本人は、冷蔵庫、クーラ、テレビ等の文化生活。インドでこの儘暮したら大臣クラスの生活だろうか。しかし、もし、インドでインド人として生れていたら、私もあの生活をせねばならない庶民である。
ヒョッとすると、私もわが子の手首をナタで切り落とし、物乞いをさせねばならなかったかも知れない。今日本人は、グルメとか何とか言って甘いものを追い廻しては、あそこはまずいと不足を言ってゼイタクしているが、あの姿を見たら言えるものではない。今、日本にベトナム難民が押し寄せて来ているが、この中にも、手首を切り落とし、指を切った者がいるのではなかろうか。 |
| 〜角もキバもほしいけれ〜 |
| 角のある動物にキバがなく、キバのある動物に角がない。角もキバもある動物は、世界中に一匹もいない。どうも神様は、宝は一つだけしか与えないのが、ご慈悲のようで、それが天の摂理であろう。しかし人闇は生物の中で、最も欲の深い生物らしく、角もキバもほしい。神様が創ってくれなけりゃ、我々人間が作ると言い出し、角もキバも両方備えた動物を作った。それが鬼である。作って見たら天の摂理に合わず、昔鬼婆、今鬼嫁となって現れ、そのできばえは、はなはだ悪いように見える。だから、角もほしいキバもほしいのは天のご意志に反することになる。金もほしい、百まで生きる命もほしい。どうもそんなうまい具合にいかないものである。(加藤泰朗) |
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