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【お母さん 有難うね】 加藤 泰朗
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| ナベプロ、渡辺杜長が亡くなった。臨終のとき、「パパの子で幸せだった」と娘さんが声をかけたという。渡辺氏は充分、名も遂げ、いわゆる大住生だったと思う。それと比べては姑息だが、私の妻は幼い子を残し、四十半ばで死んだ。妻は死の直前、意識は膝腱とし、声をかけても反応を示さなくなった。しかし、声をかければ聞こえ、眼がうつろでも見えるかも知れをい。私が一人、一人の子供の名を呼び、顔を向けると、動かなかった両腕が急に動き。子を抱く動作をした。末っ子の衆作の名を言った時は、体全体を動かし、両腕で大きな輪をつくり、何度も抱く格好をした。私と子供の声は益々、大きくなり、「お母さん、がんばって!」「衆作のことは安心して」などとかわるがわるかけたが、非情にも、ついに臨終のときがきた。私は妻に頬をあてながら「いま、死んでどうする。五人の子供は。このままでは、お前は可哀想じゃないか、死なれてたまるか」などと、未練の思いで乱れていた。その時、突然、私の肩の上から「お母ちゃん、有難う、有難うね!」という長男の声がした。私は一瞬、我に返り、異様な衝撃を受けた。下に幼い弟妹を抱えて、永久に母を失う長男が、この極限の時、「有り難うね」とは何というコトバだろう。過口、妻の骨を埋め終えた墓地で、その事を息子に間うて見た。息子は怪評な顔をしたが、間をおいて少し、ためらいながら言った。あの時はとっさに口から出た。病気なのに、生んで育ててくれたことを、いつも感謝していた。でも、言葉で言ったことがなかった。ここで言わないと、もう言えないと思ったのではっきり口で、裏、言いたかった。そうすれば、お母ちゃんが少しでも報われると思って…L。その息子はいま、卒業と就職の間を縫って、東京と仙台を何度も往復している。四人の弟妹の母親代わりの世話である。私も六十二才。やがて臨終を迎える口も来るだろう。その時は、私のほうから子供たちに「お前たちのパパで幸せだった」と言うつもりである。 |
【強いもの 弱いもの】
旧制中学校時代に・1君という目立たない同級生がいた。東京拓殖大学に進んでから空手部に入り、いつの間にか主将になって大した羽振りだった。ある時、聞いてみた。たまにはケンカに巻き込まれることもあるだろうが、そんな時はどうするのかL「逃げることにしている」「どうして?負けることはないだろうに」いや、相手がケガをしたり、死んだら、こっちが困る。逃げても恥ずかし<ないL「ついでに聞くが、ボクがケンカになりそうな時、どうすればいいか教えてくれ」「手の指をポキポキ折ながら、ともか<自分は空手二段だと言ってみる。知っている男なら引き下がる」「それでもかかってきたら?」「そんなむちゃモンには勝てん。すたこら逃げることだ」前の場合は、強いから逃げるのである。後の場合は、これは負けだとわかったから逃げるのである。同じ逃げるのでも動機が違う。けれども態度がハッキリしていて迷いがないから、白分に損傷を受けることはないし、相手も傷つけることもない。人からどう見られようと、自分が納得しておれば、それでよいわけだ。何かの誘惑事にさそわれた場合、これはケンカに巻き込まれそうになった時に似ている。そんな時、どう言ってことわるか。自分の信念の強さがあってことわるか。弱い人間だからと最初から身を引くか、いづれにしても自分を知っている者の方が結果はよい。( ある新聞から) |
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