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【美人の条件】
加藤 泰朗
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いつぞや、カルチャーセンターの茶道教室で講演をしたが、今度は化粧品会社から依頼がきた。専門の美容師による化粧の実演がある。その前に「心の化粧」について話をしてくれという。会場に入ると百人近い二十代の娘たちであふれていた。もともと私は原稿なしの講演だから、話も当然、不用意なコトバになる。もう、どうにでもなれと居直、思いつくまましゃべることにした。
若いあなたたちに、いまさら、"心を磨け"と説教したところで、素直に聞くはずがない。美しくなりたいというのは女性の本能。だれに教わるものでもなく、特に努力するものでもない。だから、私は女性はどんどん化粧していいと思う。問題は化粧の技術ばかり覚えて、せっかく化けたのに、化けの皮がはがれないようにしてもらいたい、一髪は、ソバージュ、マスカラをつけ、アイラインをひき、パープルのアイシャドウ、仕上げの唇はハニーピンク。見事にメークしたとしても、どこか生気がない。言葉に毒気があったり、振る舞いが荒々しかったら、化けの皮がはがれ醜女に変身してしまう。化粧がムダになるというものだ。そのムダを省くためにも、ここで、「心の化粧」の話をしなくてはならなくなる。
美人の条件に三つある。一に「風」、二に「髪」、三に「器量」。美しい髪、美しい顔立ちはよくわかる。しかし最初の「風」は何だろう?、それは風情なのである。いくら髪をセットし、念入りにメークしても、女性としての風情がなければ美人とは言うまい。女性が去った後、そこに香りやイメ上ンが残っているような人こそ、魅力ある女性と言える。しかし、これは極めて難しい。単なる皮膚の化粧でなく、中身からにじみ出る化粧、つまり「心の化粧」のうまい人でなければ、出せない美しさだからである。神様が与えた天性とは「女性らしさ」ということだろう。これは自然と言えば、そのままのことだが、ただ素顔だけではなく、美しさを表したいという心がなければ、自然の美は出ない。何の手入れもしない草ぼうぼうの庭では、野原であり野性である。手入れして美しい庭園と言える。
原石を磨いてダイヤに仕上げるように、化粧は少しでも女性らしさを表現したいという心、その心こそ、女性の情一こころ一生言えるのではないか。女性の天性は、やさしさ、温さ、芯の強さである。子供を抱くやさしさ、男性の怒りを溶かす温さ、風雪に耐える母の強さ、これこそ風情のある女性の美しい姿である。
化粧を楽しむうちはまだいいが、少し怖い話をする。私の妻は病気で入退院を繰り返した。病院では化粧はご法度である。病室にいる妻の顔はいつも素顔だった。「好きなお化粧もできないワ」と寂しく笑つていた。
亡くなった通夜に、だれかが死に化粧をした。その顔を見て私は絶句した。三日月の眉、頬は薄紅色、真紅の唇、「私はこんなに美しいのよ」と誇っているかのようであった。妻の化粧は、過ぎし日々の妻の面影を映し出した。化粧はこんな役目もある。
いずれにしても、健康でなければ化粧のことは語れない。健やかな体、豊かな心があってこそ、化粧の価値が出るものである。神様から与えていただいた設計図、親からもらった顔を基準にして、多少の手入れをして、「私は私なりに美しいんだワ」と心に言いきかせたら、。だれでも美人になれる。
最後に女性が見せる三ショウ。衣裳、化粧、微笑。にっこり笑ったその顔こそ、一番美しい女性の顔です。講演が終ると孫のような娘たちから嵐のごとき?拍手を浴びた。
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