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【逢いたい人】
横田 肇
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どうしても逢いたい人がある、それは恋人でもなければ愛人でもない。五十年前のお礼を言わねばならぬ人である。そしてそのご恩を返さねばならぬ人である。
シンガポール 総攻撃の命をうけてわが菊部隊五十五連隊ほ、前進、又前進、ブキテマ高地から撃ちおろされる要塞砲はわが中隊に向かって炸裂してくる。身をかくす場処もなく、凹地を見つけてへばりつく、だんだんと敵弾は身近くなり炸裂する。破片ほ身をかすめ、石ほ飛んでくるし、頭をあげることは出来ない。容赦ほない。しかしその砲弾のスキを見てほ進んで行くと、あちこちに戦友は倒れていく。だが進む中、プロパンのボンベの様な要塞砲弾は右に左に炸裂した。横にいた戦友が倒れた。その砲弾で私も左腕に三発の砲片があたった。そのときほハソマーでたたかれた程度の痛さで激痛はなかった。衛生丘ハが飛んで来て後方に連れて行き、ジャングルの中に寝かされ、一夜明けて、ジョホールの病院に収容された。
ここは、マレーの王様が半島民のために新しく建てたばかりの六階建ての病院で、まだベッドもシーツも新しく、丁度われわれを待っていたかのようであった。 次から次へと運ばれてくる負傷兵で、病室ほすぐ満室となり、後の者は廊下に寝かされる。 三ケ月近くも、風呂にも入らず、着替えもせず、毎日毎日ジャングルの中を歩き通してきた汚れた服、そして血ぬられた服、その儀ベッドに寝かされた。 まだ看護婦もいない、僅かばかりの衛生兵が走り回っているだけであり、宣1医も見えぬ。
そのうち、うじ虫がわいてきて、背中の辺まではい回る。 初めは食事もなかったが、二、三日してから食事が出た。食器もないので缶詰のカソである。 食えば出さねばならぬ、が、私は複雑骨折で身体を動かすことが出来ぬ、小便ほ食器に使ったカソに用を足して、窓からボンと捨てたが、大の方は困った。便器とてない、どうしょう、このとき、片手を負傷して首にぶら下げている老がいたので頼んだら心よく世話してくれた。便器もないのでその辺から新聞紙を拾って来て敷いてもらった。塵紙とてないのでその新聞紙を片手でもんで私の尻を拭いてくれた。 自分も負傷しているのにたびたびであった。ありがたい。 いつの間にか彼ほいなくなった。おそらく軽かったので一足早く内地送還されたのだろうか。それとも再び戦闘に連れて行かれたのだろう。
名前をきかなかった。全く不覚である。お礼を言いたい、いつかお礼を言わねばとおもっているが逢うことが出来ぬ、もう一度逢いたい、そして充分にお礼をしたい。名前をきかなかったことは誠に申し訳ない。一生このご恩は忘れることの出来ない息である。
ご恩返しに是非逢いたい人である。 このシンガポール攻撃に参加した日本軍ほ三万人、そのうち一万人が戟死、一万人が負傷、一万人が無傷であったが、その一万人は息つく間もなくビルマ行きとなり、戦い敗れて壊滅である。
娘の会社から 届いた敬老祝い
これは、平成二年十一月、読売新聞にのっていた、あたたかい文です。「娘の勤める会社から思いがけないプレゼントが届きました。とてもうれしかったので、このような会社が・あることを多くの人に知ってもらいたくてペソを執りました」 福岡県直方市感田王子団地、吉原弘子さんから、こんな書き出しで始まる手紙が(こちら社会部) に寄せられました。 話はちょっと古くなりますが、昨年九月十五日の「敬老の日」のこと。 会社から「おじいさん」あてに大きな封筒が送られて釆ました。「何だろう」と開封したところ、長寿を祝う言葉、会社の現況を紹介したものとともに、お菓子が入っていたのです。 思いがけない贈り物に、おじいさんはもちろん、吉原さん夫婦もびっくりするやらうれしいやら、そして、今年の「敬老の日」にも同様のものが届いたので、その心配りに感動したのです。 その会社ほ、北九州市小倉北区赤坂海岸二、石川金属工業(石川政商社長)。娘さんは昨年、入社しました。 今、会社では毎年、「敬老の日」に社員の家族七十才以上のお年寄りに長寿を祝う手紙とタオル、それに創業者の出身地である大分県宇佐市のお菓子を贈っています。「親を大事にしてください。あなたが今日あるのほ、両親のおかげです」という創業社長の発案で始めたそうで、今年は百十九人に贈られました。 こんな会社の考え方に、青原さんは(何かと今の若い者は・‥…と言われる時代ですが、口やかましく説教するよりも、こうした年長者を敬愛する姿勢を社長自らが示してできる行為こそ、立派な教育でほないかと思います)と言います。 吉原さんが娘さんに聞いたところによると、家庭的な雰開気で、温かみのある職場ということです。(親としても安心して娘を預っていただけます)と会社への信頼を強めていました。 |
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