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【ひとすじの心】
常岡 一郎
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私は、毎月二十日九州の里に帰る。それ以外の日は全国をかけ廻っていることが多いので、母に会ってゆっくり話す時が少なかった。もしその月の二十日には叩らなければ、翌月の二十日まで、六十日間も母に会えない、それで福岡地方にいるときは、できるだけ夜中でも帰宅することにした。
ある年の十月二十二日、故郷の近いところで会が開かれた。その頃私は、上の娘と息子を両親にあずけ、妻と下の子をつれて東京に出ていた。その日の午後十暗まで講演することになっていたので、十時半の列車に乗れば、十二時には古賀につく、駅から町まで歩いて四十分の距離である。しかし、その間は暗い田舎道である。それで私は自宅へ電話をかけた。
「今夜十二時には古賀につきます」 母の安らかな、うれしそうな顔が浮かんでくる。会のほうでもぜひお泊り下さいとすすめられる。疲れきったからだであるから、そのままのお客となって泊った方が楽であるが、母のよろこぶ顔には変えられないと思った。 ところが、その次に私の頭にわいたのは、淋しい田舎道のことである。
電灯もない田舎道、両側の稲田のぎわめきをききながら、夜中に歩いて伺るのは、都会生活になれたものには淋しい。おまけに疲れている。なるべく歩くのはやめてと思い、それで電話したときいい添えておいた。「タクシー会社に交渉して、十二時に駅まで迎えにくるように、ガソリンの統制でこられないなら仕方がありませんが、なんとか頼んで下さい」
一日の約束も果たした。疲れていても心は明るい。すぐ終列車に乗った。 古賀駅につくと、私はすぐ駅の外に目をやった。タクシーの姿は見当たらない。やはりだめか、仕方がない歩こうと、思ってふと駅のベンチを見ると、思いがけない母がいた。六十六歳の母が毛布にくるまって坐っている。私の姪と二人できている。
私は驚いてたずねた。「どうしてこられたのですか」「あなたが淋しいだろうと思って迎えにきました。タクシーはガソリンがないといって来てくれません。夜更けのこととて人におたのみするのもお気の毒と思って、自分で迎えにきました」「それはどうも恐れ入りました。タクシーがないのでいまから歩いて帰るのは大変ですね。辛がなくてお母さんにすみませんね」「辛はそこに用意してきました。あなたが疲れているだろうと思って用意してきました」駅の外に出ると、そこにリヤカーが置いてある。その上に座布団が敷いてある。母が用意してきたというのはこのリヤカーのことであった。私は半ばあきれて、「それは誰が乗るのですか」 とい一つと、「あなたが疲れているから、あなたが乗るのですよ」 といわれた。
「私が乗って誰が引きますか」 と聞くと、まさか、私と姪と二人でひきますよとはいえなくてお互いに顔を見合わせて笑い出した。「四十一歳になった私ですよ。それがリヤカーに乗る。六十六歳の小さなお母さんが、夜中の田舎道をひいて歩いてご覧なさい。罰あたりですよ。お母さんが乗って下さい」と、笑って母と姪を乗せた。寒くない様に毛布でからだを巻いてあげた。 疲れていたからタクシーで帰る。五分くらいで帰宅できるのに、まったくあてはずれである。生れてはじめてリヤカーをひき、田舎道を私は歩いた。古賀の町の家並みを出はずれ、闇の道にさしかかったとき、ひとりでに涙が流れてきた。親なればこそ有り難い涙であった。
石川啄木は
たわむれに母をせおいて
そのあまり
軽きに泣きて三歩あゆまず
と歌ってあるが、私の母はよく太っていたので、重かっただけうれしかった。 母は私の疲れと淋しさを思う心でいっぱいであったらしい。老いの年を考える余地もない。とに角私が疲れているだろう、淋しいだろう、このひとすじの親心であった。
親思う心にまさる親心
きょうのおとずれ何と聞くらん
幕末の志士、吉田松陰先生が刑場の落と消えられるとき残された歌である。どんなに子が親を思っても、親が子を思うほど二筋ではない。一筋の思い、一念こめて思いをとおすというのは、親が子を思う心である。
一筋の心は求めずに捧げつくす親心である。要求のない心、この親心をもって、自分のつとめに捧げつくすとき、その人自らどれほど幸せであり、安らかであるか分からない。 |
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